第1話 小倉藩初代藩主・細川忠興が小倉の町に残したものとは

小倉藩初代藩主・細川忠興(ほそかわただおき)は、唐造りと呼ばれる特徴的な城を築城し、城下町小倉を賑わいの町につくり上げた人物です。また、小倉の夏の風物詩「小倉祇園太鼓」の生みの親でもあります。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の有力者に仕え、知勇兼備の武将としても名高いこの細川忠興という人物は、小倉の地でいったいどのようなことをおこなったのでしょうか。

細川忠興、中津に入封したのち小倉へ

細川忠興は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、徳川家康率いる東軍に与し、首級を136上げたといわれています。

その功績で豊前一国、豊後の二郡(国東郡、速見郡)の30万石が与えられ、最初は中津城に入城。その後ほどなくして小倉城へ居城を移します。そして慶長7年(1602年)、忠興は小倉城の大規模改修と城下の整備に取り掛かります。

小倉の町づくりは京都がお手本

細川忠興が目指したのは、小倉に自らが生まれ育った京都のような町を作ること。現在、小倉の繁華街が碁盤の目状になっているのは、京都の町を手本に作られたことが理由です。京町、大阪町(現在の鍛冶町の一部)、室町など京都や大阪の地名、町名が見られるのも忠興の好みによるものです。

また、小倉っ子にはおなじみの「小倉祇園太鼓」も細川忠興が「京の文化」のひとつとして取り入れたもの。元和3年(1617年)に、城下の鋳物師町に小倉祇園社を創建。翌年からおこなった「祇園会(ぎおんえ)」が現在の祇園祭の始まりといわれています。

楽器は鉦(かね)と鼓(つづみ)、笛が使われていましたが、万治三年(1660年)に太鼓が加わります。当初は六尺棒にくくった太鼓を叩くスタイルでしたが、明治時代末期に山車に据え付けた太鼓を叩く、現在と同様のスタイルとなりました。

≪忠興に関連した地名で、現在も残っているもの(一部)≫
香春口、中津口:城下町から外部へ通じる関門の名称
菜園場(さえんば):忠興が調達していた野菜を作らせていた場所

鯉のぼりでおなじみ「桜橋」も忠興に関係あり?

毎年春に多数のこいのぼりが泳ぐことで有名な小倉南区の桜橋・小嵐山も細川忠興に関連した名です。

この桜橋付近は京都の嵐山に似ていることから忠興の父・細川幽斎(藤孝)が嵐山の桜を取り寄せ、この山を中心とした一帯に植えさせたといわれています。

その後、この山を小嵐山と呼ぶようになったとのこと。北九州モノレールの「徳力嵐山口」駅の「嵐山」の由来でもあります。

父・細川藤孝譲りの知勇兼備

細川忠興の父・細川藤孝(のちの細川幽斎)は、戦国時代随一の教養を身につけた文化人でした。当時の武家のたしなみである茶の湯や連歌の才能を持ち、さらに和歌・囲碁・料理・猿楽などにも深い造詣を持ちます。

それだけでなく、剣術などの武芸にも秀でており、知勇兼備の武将として名を馳せました。安土桃山時代には足利氏に仕え、のちに信長、秀吉、家康といった時の有力者に重用されます。

忠興も、父親同様に知勇兼備の武将として才能を大いに発揮。「利休七哲」の一人に数えられており、蒲生氏郷、古田織部と並んで千利休の最も優秀な弟子であったといわれています。

そして武功の実績は父親以上とも。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐、そして前述の通り関ヶ原の戦いでも活躍を見せています。

細川忠興の最期

しかし知勇兼備の武将・細川忠興も病には勝てません。慶長16年(1611年)に病に倒れながらも、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣には参戦。しかし5年後の元和6年(1620年)に病気を理由に三男の忠利に家督を譲って隠居しました。

そして正保2年(1645年)12月2日に「皆どもが忠義 戦場が恋しきぞ いづれも稀な者どもぞ」との言葉を残し死去。忠興は84年の生涯を閉じました。

まとめ

現在の小倉の街の原型を作ったともいえる細川忠興。今回紹介したもの以外にも、小倉の街には忠興に関連する川や地名などが多数あります。小倉の市街地を歩くとき、少し気にかけてみてはいかがでしょうか。

小倉城に入ると、細川忠興のことをもっと詳しく知ることができますよ。

参考文献:「細川忠興と小倉」(著・松井康秀)[1976年11月発行] 文:成重敏夫

第2話 誇り高き才媛・細川ガラシャの悲しい生涯

小倉藩初代藩主・細川忠興(ほそかわただおき)の妻・細川ガラシャ。才色兼備と謳われ、戦国時代の女性の中でも高い知名度を誇ります。 明智光秀の三女として、そして細川家の嫁として、数奇な運命を歩んだ細川ガラシャの人物像に迫ります。

細川ガラシャと小倉

細川ガラシャは、小倉の地に足を踏み入れたことはありません。ガラシャが亡くなったのは慶長5年(1600年)8月のこと。細川忠興が小倉城を居城とした慶長7年(1602年)より前の話です。

ガラシャに対して深い愛情を抱いていた忠興は、ガラシャの死後、彼女をキリスト教に導いたグレゴリオ・デ・セスペデス神父を小倉に招きます。

セスペデス神父は慶長6年(1601年)に教会を設立。

以降、慶長16年(1611年)にセスペデス神父が亡くなるまで、忠興の命によりガラシャの追悼ミサを行ったといわれています。

小倉城に展示されているジオラマでも、この追悼ミサの様子が描かれています。

小倉城天守閣一階の展示

明智光秀の三女として、細川家の嫁として

細川ガラシャは、永禄6年(1563年)、明智光秀の三女として生まれました。本名は明智 玉(あけち たま)。天正6年(1578年)8月に、織田信長の勧めにより細川忠興に嫁ぎます。

しかし天正10年(1582年)に起こった本能寺の変において、父・明智光秀が信長を襲撃したことで玉の生活は一変。

光秀の娘であるガラシャは「謀叛人(むほんにん)の娘」の烙印を押され、夫の忠興により丹後国の味土野(みどの)に幽閉されてしまいます。
天正12年(1584年)に羽柴秀吉の取りなしにより大坂に戻った玉は、その後キリスト教に傾倒します。

キリスト教と「ガラシャ」の名

キリスト教に傾倒した玉は天正15年(1587年)に受洗。このときに「ガラシャ」という洗礼名を受けました。

由来はラテン語で恩寵
(おんちょう)(=神の無償の賜物)を意味する「Gratia(グラツィア)」という言葉。本名の「玉(たま)」が「賜物」という意味も持つため、本名を意訳してつけられたといわれています。

キリシタンとなったガラシャは、うつ病を克服し、快活で積極的な性格へと変化。侍女や家臣の改宗を積極的に進めます。
そして、自らも書物を通じてさらにキリシタンへの理解を深めていきます。

 

ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

細川ガラシャの辞世の歌は「ちりぬべき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」。

「花は散るときを知っているからこそ花として美しい。人間もそうであらなけれならない。今こそ散るべきときである」という意味です。

慶長5年(1600年)、夫の細川忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣。
忠興は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣に命じます。

ガラシャは、自らが身を置く大坂玉造の細川屋敷を石田三成の軍勢に取り囲まれます。人質となることを要求されますが、それを拒み死を選ぶガラシャ。

しかしキリシタンであるため自害が許されず、家老・小笠原少斎に胸を長刀で突かせて絶命しました。このとき、ガラシャは38歳。

ガラシャは自らの“散るべきとき”を知っていたのではないでしょうか。

 

オペラになったガラシャ

細川ガラシャの壮絶な生涯は、彼女の死後ヨーロッパで戯曲化。1698年にウィーンで、戯曲「気丈な貴婦人グラティア」が上演されました。

丹後国王の妃であるガラシャが、暴君である夫のキリスト教迫害に堪え、キリスト教の信仰を守り通すというあらすじで、最後は自らの死をもって、夫が自らの非を認め、改心するというものです。

その後、フランスでの書籍の出版などもあり、ガラシャの生涯はヨーロッパにも広く知られるようになり、キリスト教倫理の模範として称えられました。

 

まとめ

小倉の地に足を踏み入れたことがないとはいえ、小倉城下で長らく追悼ミサも行われていたことから、細川ガラシャは小倉に縁のある人物といってもいいでしょう。

ガラシャへの愛情の深さから、彼女をキリスト教に導いたセスペデス神父を小倉に呼び寄せるほどですから、もしかしたら細川忠興の町づくりに、ガラシャの影響があるかもしれません。

……などと、想像してみるのも面白いですね。

参考文献:田端 泰子「細川ガラシャ」ミネルヴァ書房、2010年/安 廷苑「細川ガラシャ キリシタン資料から見た生涯」中公新書、2014年 文:成重 敏夫
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